ちょっと前に安達さんが実力も謙虚さもない年配者は、もう居場所がない。 | Books&Appsという記事を書いていた。

 

この記事を読んで、僕は今まで出会ってきた異常性格者達の事が頭を通り抜けていった。

みなさんも具体的に何人か思い浮かぶと思うのだが、世の中には物凄く性格が悪い人がいる。

 

もちろん…人によって合う合わないはあるので、一概に良い悪いで語れるようなモノではないとは思うのだが…それでも集団内でほぼ全ての人間に嫌われるタイプの人間というはいる。

 

これらの人達について義務教育時代は「性格って難儀なものだな…」としか思わなかったのだが、最近になって

 

「ひょっとして…仕事って物凄く人の性格を動かすのでは…?」

と思うようになってきた。

 

PHSを持たされると性格がメチャクチャ悪くなる

自分の本にも書いたのだが、医者は病院勤務中にPHSを与えられる。

<参考 ほんとうの医療現場の話をしよう>

 

医療はチームプレイでもって執り行われるものだ。

そして医者はその先導役のようなものであり、コメティカルと言われる他職種の人への細かい指示ならびに問題発生時に即座な対応が”常に”求められる。

 

この”常に”というのが実はメチャクチャ辛い。

1件2件ならPHSが鳴ったら対応できても、これが10件20件ともなると頭の中はパンクする。

 

基本的に医者はメチャ忙しい。PHSから飛んできた指示にだけ対応してればいいのならまだしも、それ以外に通常の診察だったり別の仕事が超山盛りだ。

そういう環境下で別件が積み上がりまくると、どんなに性格がいい人でもそのうちメンタルが削れてくる。

 

こうして多くの医者は2つの選択肢を必然的に迫られる。

それは電話口で良い顔をするか悪い顔をするかである。

 

良い顔をすると仕事が増え、悪い顔をすると仕事が減る

普通に考えればである。みんな色んな意味で困ってるから、医者に電話をするわけだ。

それに対して丁寧に受け答えをして、紳士的な対応をとるのは当たり前だろうと思うだろう。

 

しかし…残念ながら多くの医者はジェントルにはなれない。

何故か?それは良い顔をすると、電話の件数が数倍になるからだ。

 

当たり前だけど…みんな電話して嫌な思いなんてしなくない。

しかしこれを逆説的に言えば…電話口で嫌な思いを相手にさせれば電話は減るのである。

 

こうして多くの医者は「ん?ひょっとして電話対応を悪くすれば、日中業務にもっと集中できるのでは?」という悪魔の囁き声を聞く。

こうしてある人はため息交じりで電話に出るようになったり、またある人は詰問調で電話相手を問い詰めるようになる。

 

こうなると次第に医者・コメティカルの間で

 

「○○先生はヤバい」

「△△先生は神!」

 

という風な評判が流れるようになる。そして神と呼ばれるようになった人間には電話が山のようにふりそそぎ、それにセットで膨大な雑務までもが降り注ぐようになる。

 

PHSは人を変えるのだ。

 

闇落ちするか、潰れるか、成長するか

こうして膨大な負荷をかけられる良い人の行き着く先は主に3つである。

 

1つ目は単純に闇落ちするパターンだ。

電話口対応が次第に悪くなっていって、それで固定される。

 

2つ目は潰れるパターンだ。

断れない性格が悪く作用し、日常業務が崩壊して終わる。上司や周りの人間が気遣いできる人で構成されている場合は助かるケースもあるけれど、そうでない場合は鬱になって終了である。

 

そして最後の3つ目が圧倒的成長だ。

負荷はそれに応える人を大きく伸ばす。

 

ある人は上司をうまく巻き込んで仕事を分配する技術を学び、またある人は純粋に生産力がハチャメチャに伸びる。

仕事のシステム自体が悪いことに気がついて変革を起こすタイプの人間もいる。

 

試練は人を変える。逆に言えば、試練が無い状態で人は変わらない。

こうして嫌なイベントを乗り越えるべき山として上手に利用できた人は、良い性格とセットで仕事の能力も手にする事ができるのだ。

 

何がわからないのかがわかるようになると、現場が教科書になる

「仕事に気遣いとか根回しなんて不毛」

「仕事は仕事なんだから、成果さえ上げてれば十分じゃん」

 

僕はずっと長いあいだそう思っていた。

医者の仕事は突き詰めると診断と治療に集約されるものであり、診断と治療の技術さえあれば、他は”黙っても皆がついてくる”ものだと思っていたのである。

 

ところが医者を初めて10年ぐらいたったあたりで、いわゆる医者にしかできないタイプの仕事がほぼ完成されつつある事にふと気が付き始めた。

もちろん未だに未熟な領分もあるはあるのだが、それでもいま現在の僕は一般的な診療に関していば部長クラスの人間とほぼ変わりがなくやれる。

 

何が変わったのかを一言でいえば「何がわからないのかが、わかるようになった」のだ。

新米の頃は見逃しや間違った選択のようなものをやらかしてしまっていたが、今の僕は

 

「ここまでは”わかる”。けどここから先は”わからない”」

「この”わからない”部分をチームで共有して議論しよう」

 

という風に、未知に光を当てる技法のようなものが身についたのだ。

もうちょっと一般化していうと”フックを引っ掛けられる技術”みたいなのが仕上がったのである。

 

一度この技術がみについてしまうと、全ての答えは現場にあるという当たり前過ぎる真理に気がつけるようになった。

 

以前は知らない事を無くそうと必死になって本を読み込んでいた。

けど、今は現場の未知を無理矢理にでも探し出して光を当てて、そこの該当部分を丹念に本で調べ、それを仕事に組み込んでより良いシステムを回すのが史上であると思えるようになった。

 

「ああ、臨床医として一つ目の仕上がりがきたな」

そう思った瞬間であった。

 

仕事の能力なんて30代で大体仕上がってしまう

僕はいま30代中盤を折り返したあたりの人間だが、上に書いた”臨床医としての仕上がり”を感じると共に

「生産性なんて兵隊の技術でしかないんだな…」

という事も思うようになってきた。

 

若い頃はそれこそ難しい診断や手技をスパスパと諸先輩方がやる姿をみて

「か、かっこいー」

と憧れていた。

けど、この歳になるともうそれは普通の事である。というかできないと逆にヤバいものでしかない。

 

こうして若い頃に羨ましく思えた技術は99%の人が身につけられる性質のものでしかないという事を知るにつけ、仕事の生産性なんてのは若者のどんぐりの背比べでしかないんだな…という事を実感するようになった。

 

もちろん、細かいところでいえばウマいヘタはある。

中には名人芸・職人芸ともいえる緻密な仕事をする人もいて、そういう人の事は純粋に尊敬はしている。

 

しかし…名人芸・職人芸は万能のエクスカリバーではない。というかむしろ、それが逆に悪い意味でのこだわりとして作用する場面も多々ある。

 

自分から折れられない人間は、一言でいって残念だ

思い返すにだ。僕が今まで出会ってきた異常性格者達は悪い意味でのアスペルガー器質のようなものを皆が備えていた。

 

彼・彼女らは局所を切り取ってみれば優れた部分もあるのだが、その小さなこだわりが全体を大きく破局させていた。

たぶん…彼・彼女らからすれば

「なぜ私の偉大なる仕事の良さを認めないのだ!」

と憤っていたのだと思う。

 

だけど…現場で最も大切な事は細部ではない。

全体が気持ちよく円滑に回り続ける事は名人芸・職人芸なんかよりもメチャクチャ大切だ。

 

細かい場所にこだわりすぎてて全体像がみえていない「自分から折れられない」タイプの人は…なんていうか残念なのだ。

 

君はこだわらない事にこだわれるか

傍からみれば「何もそんな下らない所にこだわらなくても…」という場所に執着された名人芸・職人芸より

「別にどっちでもいいよー。好きにしたら?」

「ここは全体像からみれば無視していい場所だし」

「けど、ここはちゃんとやった方がいいかなー」

という風な態度を取れる”普通の人”の方が遥かに好ましい。

 

このように

「どうでもいい場所の裁量は、部下にキチンと与えられる」

「細かい事にこだわらない事に、こだわれる」

「全体像をみて、肝心な場所にこだわれる」

タイプの人間は、ヘタに名人芸・職人芸ができるタイプなんかよりも遥かに尊敬される。

 

こうして、仕事はキチンとプロとしての仕上がりをやりつつ、みんなを楽しくさせられるタイプの人間が世の中にはいる。

職人としての技術がある程度完成したら、このようなマネジメント技術のようなものを身につける事こそ、仕事で身につけるべき事なのであろう。自分自身の40代の目標はこれである。

 

現場にこだわりすぎる人間は、どう考えても痛い

「事件は会議室で起きてるんじゃない 現場で起きてるんだ」

 

これは「踊る大捜査線 THE MOVIE」という作品の中で使われたフレーズである。

この言葉に心を打たれた人も多いだろう。何を隠そう、僕もである。

 

しかしこの歳になってくるとだ。この言葉が逆のニュアンスで聞こえるようになってきてしまう。

 

いい歳して子供を過保護にしすぎる親

いつまでたっても部下に裁量を与えられない上司

結婚せずに自由恋愛をいつまでたっても繰り返している人

 

なんていうか…現場への異常なこだわりをしている人をみていると

「お前はもう会議室に行けよ…現場にいちゃ駄目だろ…」

と思ってしまうのである。

 

もちろん…各々にそれなりの事情があるのだろうなとは思う。

自分自身だって、たぶん部下からみれば「現場に来るな」と思われている領域があるんだろうし。

 

その上で、なんていうか出家というか、浮世へのこだわりというものを徐々に徐々に捨てられるようになっていかなくてはいけないのだろうなと感じる事は多い。

 

人生には良い居場所と悪い居場所がある。

そして良い居場所に一度座ってしまうと、ついそこに長居したくなってしまうという気持ちは痛いほどよくわかる。

 

しかし…その良い居場所というのは、誰かが空けてくれたからこそ座れた場所なのだ。

だから十分に楽しんだのなら、名残惜しい気持ちを持ちつつも、ゆっくりと席をあけよう。

 

そして次に座る場所を探しにゆかねばならぬのだ。自分の性格を悪くしない為にも、ね。

 

 

 

 

 

【著者プロフィール】

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高須賀

都内で勤務医としてまったり生活中。

趣味はおいしいレストラン開拓とワインと読書です。

twitter:takasuka_toki ブログ→ 珈琲をゴクゴク呑むように

noteで食事に関するコラム執筆と人生相談もやってます

Photo by National Cancer Institute